こんにちは。TsutayaPです。
ちょっとだけ時間ができたので、久々にエッセイ(という名の自分語り)を認めていこうかなと思います。
自分にとっては大切かつ貴重な思い出なので、まだ覚えているうちに文章にしておきたいなというのもあります。
適当にゆるく書いていきます。
以前のエッセイはこちら。
目次
長距離を始めた小学校時代
このブログでもちらちらと触れているように、私自身は比較的ランニングをする方で、何回かフルマラソンにも参加しています。*1
その原点となったのは小学生の時に参加した「大文字駅伝」でした。
京都市民なら名前は聞いたことがある有名な大会かと思います。
その駅伝も休止の議論がされているということで、何とも寂しさを感じます。
各地区予選会を突破した学校が参加する本選には50校が参加し、公道を止めて実施するという大変力のこもった大会です。
6年生が参加することになっており、1年間はしっかり長距離の練習を積むのが伝統。私の小学校は全員参加ではなく、学年の3~4分の1が参加していたと記憶しています。
運動会のリレーで活躍するのがかっこいいのと同じように、この駅伝の正メンバー(男女5名ずつ)*2に選ばれるのもそれなりにかっこいいことでした。
小さい頃から水泳に取り組んでいた私は、多少なりとも長距離の才能があったらしく、運よく正メンバーに選ばれました。*3
本選では7区(1500m)を走って区間33位。世間には早い人が山ほどいるんだなということを知らされる大会に。
このことが私にとっては成功体験となり、以後中高と陸上競技に取り組むことになりました。もっとも、その陸上競技では大した結果を出せませんでした…笑
何だかんだ大人になっても走り続けられているので、始めた甲斐があったかなとは思います。
といった流れで、小学校のグラウンドで練習したことがいい思い出になったわけです。さて、これがこの後にどう影響してくるのか。
1回目:浪人時代
1回目に小学校のグラウンドに舞い戻ってきたのは浪人時代。
なぜそんなことをしたか。単純に暇だったからです。笑
予備校のリズムにはうまく馴染めなかったこともあり、息抜きの場をどこかで探していたところ、小学校の存在を思い出して練習に殴り込みに行きました。
この頃はまだ知っている先生も多かったので、割と多めに見てもらって練習に参加していました。
夏休みは練習に参加してから予備校に行き、秋以降は予備校が終わってから練習に参加。めちゃくちゃストイックですね。
引退してから1年も経っていなかったので、小学生相手に闘うには十分。
練習からタイムトライアルまで、あらゆる場面でペースメーカーを務めました。
結果的には予選会を突破できなかったので、悔しい思いをした年でした。
この頃は私もまだ18歳で小学6年生よりは6歳上くらい。小学生も少しお兄さんが練習に来てるという感覚で「先輩」「パイセン」などとよく呼ばれていました。
とにかく暇だったので、練習外でも公園で遊んだりしていました。見つかったら不審者として通報されかねない事案です。
ただ、自分の身分を説明するのにはすごく苦労したことも覚えています。
高校生でもない、大学生でもないという「浪人生」を分かってもらうのはすごく難しいことで、結局「ニート」と説明していたような気がします。
ただ、大学受験するんだということは明言していたので、ちゃんと大学に受からないといけないというプレッシャーはかけてもらったなと。
小学生にプラスがあったかは分かりませんでしたが、自分にとっては実りのある1年となりました。
2回目:大学4回生の時
1年の浪人を経て無事に大学生になった後は、サークルやバイトもあって、小学校に寄り付くことは無くなっていきました。
なぜか復活してしまったのは大学4回生の時。就職活動は終わり、サークル活動もひと段落となった時に、大学生のうちにやり残しを潰しておきたいという気持ちになりました。
そこでふと浮かんだのが小学生と練習すること。社会人になって地元を出ていく可能性が高かったので、やるなら今しかないと思ったわけです。
という流れで小学校に行ってみたところ…知っている先生がいなくなっていて「お前誰」という状況になっていました。これは大誤算。笑
校長先生に直談判した結果、「学生ボランティア」として雇ってもらうことになりました。なぜこの行動力が自分から出てきたのかはさっぱり分かりません。
この時は私も22歳となっており、学生からは「先生」と呼ばれる立場に。
教員になる予定もなく、教職課程も履修していない自分がそうなってしまったことにびっくりしました。
自分自身の意識としても、ただ練習に参加させてもらうだけでなくなりました。
小学生たちにどういったことを伝えられるのか、自分がどう見られているのかということを考えながら動くように。やりがいと難しさを感じる日々でした。
やはり走れないと説得力がないということで、走力も取り戻してペースメーカーが務まるほどに回復。
小学生も熱心に取り組んでくれた結果、見事に本選出場を決め、私にとっても思い出深い年となりました。
教員という道はあったのか
特に2回目はかなり教員に近い立ち位置であり、先生方からも「君は教員にはならないのかね??」とよく質問されました。
これに対する答えは…「諸々度外視するならやりたい」でした。
教員という職業には十分な魅力があるのですが、給料、長い労働時間、教員免許をとる労力を加味すると無理!と思っていたのです。
判断するのも大学1回生の頃とかなり早かったので、選択肢としては早くに消していたことになります。
そういった背景もあり、一度は諦めた職業を少しでも体験できたのは、自分にとって意義深かったなと思います。
後は…教員になるなら、教科指導と進路指導が主になる高校教員になりたい、というのもあります。
私の知り合いからも「お前は教員に向いている」と言われることがあり、たまに心が揺らぎそうになりますね。*4
教員免許であれば、今からでも大学の通信過程で取るという方法も十分にあり得るので、まだ教員を目指すことができます。
よほど今の仕事に絶望して、上述の記憶を思い出す日が来たら、教員を目指すということがあるかもしれません。まあ、ほとんどないでしょう。笑
この記事で何が言いたかったのかと言うと「天真爛漫な小学生とかけっこするのは楽しい!」ということです。これは間違いありません。
まとめ
- 大文字駅伝のメンバーに選ばれたことで長距離にのめり込む
- 浪人時代はあまりに暇すぎて練習参加、ただ走るだけ
- 大学4回生ではバイトとして参加、教育的視点も求められる
- 教員という仕事を垣間見ることができるいい機会に
- 今後気が変わって教員を目指すことがあるかもしれない(ほとんどない)
こうして改まって思い出してみると、他ではない経験だったなと。
自分の胸の中にしまって生きていこうと思います。
当時一緒に走ってくれた小学生、何かの偶然でこの記事見てくれないかな…無理か。笑
ということでこの辺で終わりにしたいと思います。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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